止められない暴走が止まる時

Written by 星野 雄一 on 2020-02-28

コロナウイルス問題によって、世界中で混乱が起きています。
中国の一都市で発生したことがあっという間に世界中に広がり、健康面のみならず、金融・経済までも影響を及ぼしています。リーマンショックの時を思い出し、世界はつながっていると改めて感じる日々です。

マスクはもちろん様々な日用品は品不足となり、生活にも混乱をきたしています。東日本大震災直後のことを思い起こさずにいられません。そして小学生の子供を持つ親としては、急遽2週間の対応方法を決めるなど、なかなかな事態だなと感じています。

 

色々と混乱は起きていますが、個人的に気になることとして、「なぜ今このウイルス問題が起きたのか」、その意味について考えています。


株価は1年以上前から下落すると言われながら、なかなか下落しませんでした。しかし今回、大幅に下落しました。

 

自民党、安倍政権を問題視する声は前々からネット上を中心に上がっていましたが、選挙をすると自民党が勝つという状況も変わりませんでした。しかし今回、分かりやすく政治のリーダーシップ問題が露呈しました。世代問わず多くの国民に失望を与えてしまったのかもしれません。現在有力な野党もいないので、次回の選挙で与党が変わることはないかもしれませんが、少なくとも構成は大きく変わるのでしょう。

  

リモートワークも時差出勤も前々から謳われていましたが、古く大きい日本企業はスピード感を持って変われませんでした。しかし今回、それがあっという間に実行できました。もう、できない理由はないでしょう。

  

このように多くの人の中で違和感を感じていたこと、でも人間の力で変えることができなかったことが、自然の力でこうも即座に変わってしまったということ。

これを目の当たりにすると、ジレンマに陥っている様々なシステムが変わる転換であり、その抜け方を示されているようにも感じます。

 

・イノベーションのジレンマを起こしているが、なぜか延命している大企業
・環境破壊していることを分かりながら売り続けられる商品、買い続ける消費者
・年金破綻はわかっているのに、手を打たない日本

様々なことが臨界点を超えそうです。

 

超えた瞬間は、一見すると混乱であり、問題であるかもしれません。ただ、ジレンマからの脱却が出来つつある現在の状況を見ると、次のステージへの光ではないかと思わずにいられません。

 

折れないメンタルの作り方 テクノロジーと共存する未来に備えるために

Written by 津嶋 辰郎 on 2019-12-16

WHOが発表している報告によると、


うつ病の人は2015年時点の世界総数推計で3億2,200万人に達し、05年比で18%以上増加した。


との事である。恐らくこういう統計データの数字以上に、昨今メンタルの不具合を訴える人を身近に感じているのではないだろうか。


私は現在、企業の経営者、新規事業立ち上げのコンサルタント、研究開発型スタートアップの支援者、エンジェル投資家、プロトライアスリートの支援者、全国トップを目指す人力飛行機クラブの創設OB、全国トップを目指す少年剣道の指導者補佐?!として、日常生活の中で普通以上にストレスを感じているであろう老若男女と過ごしている。

自分自身としても過去に異なる3種目において日本一を目指して戦い、運が良いことに達成することができた。ただ思い返すとどのチャレンジにおいてもメンバーのメンタルという側面では、改善の余地が多いにあると反省しつつ現在の取り組みに活かしている

 

本ブログでは、その取り組みにの中で今感じている最も重要な事をシンプルな図式で表現してみようと思う。


今回取り上げたメンタルの不具合という問題は、心が折れるとか心が病むとか表現されるように、定量的な状態量の計測が難ししく、かつ外部から観察が難しい”心”という存在に起因している。さらに、その不具合の原因も”ストレス”というというこれまた定量的な計測や絶対値の定義が難しいものによることが、問題をよりいっそう複雑にしている。


しかし、現実に目を向けると客観的に見ても明らかに、毎日非常に高いストレスにさらされながらも、高い目標に取り組み結果それを達成している人々も数多く存在すのではないだろうか。こういう現実からは、そうしたチャレンジに取り組むことができる先天的に、または後天的に身につけた、ストレスを回避できる特殊な能力でもあるのだろうか?またはどんなストレスにも耐えられる強い心というものがあるのだろうか?と考えたくなる。


先に自分の考えを述べると、これは特殊な能力でも心そのものの力によるものではなく、


社会と自分を繋ぐ関係性の違いである

そのことを極めてシンプルな不等号の図式で示すと下記である。


自分自身が心から望んでいるありたい姿 > 社会や周囲からの期待


この関係性が成り立っている元での仕事、スポーツ、その他日常生活におけるチャレンジは、ストレスで潰れたり、心が折れたりすることはない。

逆に、

自分自身が心から望んでいるありたい姿 < 社会や周囲からの期待


この関係性になっている取り組みは、どんなに一般的にレベルが低いチャレンジと考えられる取り組みであっても、いとも簡単にストレスは我々の心を蝕んでいく・・・。こう考えると心に起こっている現象は、非常にシンプルである。


この話を前述した日本を初めとする先進国におけるメンタルヘルスの問題原因の考察に当てはめて考えると、現状はこう表現できる。

多くの企業の置かれた競争環境が厳しくなる影響で、経営者そして管理職が社員に、より高い期待を要求せざるを得なくなった。さらに業績向上のために効率化、定型化された業務環境によって、多くの社員が自分自身としてのありたい姿を描けなくなってしまった。その結果、伝統的な企業に属する会社員はストレスを感じ続けながら業務に向き合う事になっている。

一方、自分も含めたオジサン世代が、今考えるブラック企業の環境でも潰れずやってこれた理由は、世代総じて心が強いわけでは無く、この不等号が左に開いていた環境下で仕事に取り組む事ができていたからだと考えるとシンプルに理解できるのではないだろうか。


そして人生経験として成功体験の積み上げは、結果的に左辺のありたい姿をどんどん高いレベルに押し上げてくれる。


自分自身が心から望んでいるありたい姿 >> 社会や周囲からの期待


だからこそ難題に取り組める起業家やトップアスリートなどは、一般人からしたら全く考えられないような、チャレンジをしていたとしても、本人はそれほどまで、いわゆるストレスは感じていないのである。


ここから学ぶべき最も重要な教訓は、この図式のバランスを崩さない限り、人間は誰しも前向きにチャレンジをすることができる能力を持っているということである。

もしあなたが現在の取り組みに何か継続的にストレスを感じているならば、このバランスが崩れていると考えて、現状を見つめ直してみてはどうだろか?

その状況を冷静に把握することができれば、修正は可能である。私の経験上、多くの場合は自分が望んでいるありたい姿を背伸びしているか、本当はそこまで本気でやりたいと思っていないということが原因であることが多い。この事実は、自分のプライドさえ邪魔しなければ、自分自身で修正することができる問題である。


こう考えると我々自身がプロアクティブにこれからくるであろう未来社会において、ストレス無く過ごすために取れる選択肢は2つしかない。それは、


 ・社会や周囲が求める以上のあるべき姿を描いて取り組むこと


 ・社会や周囲からの期待が自分のあるべき姿より低い場所で過ごすこと


前者は勿論のこと、後者も一見非常に難しいようにも思われる。ただ今世の中を騒がせている、グローバル化、ダイバーシティー、ITテクノロジー・・・の流れは、先進国に暮らす人々にとっては新たなライフスタイルの選択肢を与えてくれつつある。自分が求める要件を満たしてくれる、国や地域などの生活する場所、そして仕事や趣味のコミュニティーを見つけ出し、そこに移ることが容易になっていく。


これも20世紀の様々なテクノロジーの進歩は多くの人々から衣食住の不安から解消してくれた。一方、それによって日常生活の活動において、前述の図式のバランスを崩し、我々は”心”という新しい課題に直面している。

この心の問題は、テクノロジーと共存していく未来社会にとって・・・特に今の子供達の備えとして、幼少期の過ごし方から準備を進めておいても遅くない要素だと考えている。 ブログ故にかなりざっくりとした内容であるが、何かの切っ掛けにしてただければ幸いある。

マシュマロチャレンジ、幼稚園を卒業したばかりの子供は本当に高いタワーを作れるのか?

Written by 山田 竜也 on 2019-11-25

先日、公立小学校1年生のクラスで1,2校時の90分間をもらいマシュマロチャレンジを行う機会を得ました。以前見た TOM WUJEC のTED TALKSの中で、「MBAの卒業生より幼稚園の卒業生の方が高いタワーを作る」と言う話があったので一度試して見たいと思っていたことが、やっと実現しました。ちなみに、MBAの卒業生向けは未だ実施していません。

 

マシュマロチャレンジは、20本のスパゲティ、90cmのマスキングテープ、90cmの紐、ハサミ1個、そして、マシュマロ1個を材料とし、4人1組で18分間で、マシュマロを一番上に乗せた自立したタワーを作り、机からマシュマロまでの高さを競うゲームです。

世界記録は99cmと言われています。自分が見たことがあるのは90cmぐらいまでです。大人から子供まで様々なシーンで活用されていて、実験し、試行錯誤することの大切さに気付くと共に、イノベーティブなチームビルディングを行うアクティビティとしても効果があります。

 

さて、当日の様子はというと、小学校1年生の段階で想像以上に知識も落ち着き度合もバラバラで、18分間のチャレンジタイムに辿り着くまでが一苦労でした。近所の子供たちの様子や公開授業で外から見ていたのでは分からなかった多様性(というかバラバラ感)にビックリし、落ち着かせようと用意してきた新ネタにもすぐに飽きられて焦り、子供たちを集中させる教育コンテンツの開発は大変だろうな〜と、喉を枯らしながら担任の先生の苦労を思いました。

そこで頭に浮かんだのが最近のトレンドの一つである学習者中心というコンセプトでした。

 

学習者中心

過去のブログ「人材育成4.0」で学習者中心と言うトレンドを紹介しました。「人材育成1.0は徒弟制度、2.0は階層別研修、3.0はアクションラーニング、4.0は学習者中心」と提供手段の視点でトレンドの変化を整理したものです。

お仕着せではなく学習者が主体的に選ぶと言う考え方に共感する人は多いと思うのですが、実現手段には課題があります。実際にバランバランな生徒たちの前に立つと、さて、どうしたものかと、この実現を求められる先生側の苦労への共感度が上がります。

学習者中心を実現するための課題は以下の3つと考えています。

・学習者への動機付け
学習者を主体とするには学習者に主体性が無いと成立しません。学習者に主体性を持たせること自体が最初の課題となります。主体性の無いままの学習者を自由にするよりは型稽古を強制した方が残るものは多いかもしれません。

・学習者の得意分野に応じた教え方
ハワード・ガードナー博士により1983年に発表されたマルチプル ・インテリジェンス理論では、知性には8つの種類があり、人は、そのうちの複数の知性を備えていて、どれが強いか弱いかという「程度」と「組み合わせ」がその人の個性になると考えられています。得意な知性を伸ばしたり、得意な知性を通して苦手な知性を学んだりという工夫がされています。

・学習者の発達段階に応じた教え方
ここでは科目や知性毎の進度に合わせるだけでなく、人間としての発達段階に合わせた自己理解や他者理解に関してもフォローが必要になってくるでしょう。専門教育に進む前の社会人としての義務教育を含む小学校ではより重要な課題かもしれません。

 

モチベーション、得意な知性、発達段階、当然これらは個人によりバラつき、組合せも様々です。生徒を中心に考えれば、こうした課題に対して応えていく事が必要なのかもしれません。一方でこれに応えるには先生側に本当にマルチな能力が要求されます。図工や音楽という水平的な成長のためのスキルには既に教科担当という形で手が打たれていますし、 社会性のある人間としての垂直的な発達段階という点でも個別の補習等で対策が取られている様です。さらに、知的、身体的という多様性もクラスを作っている学校は、近い将来の社会を感じることが出来る場所かもしれません。

「これからの時代には金太郎飴の集団よりも一人一人の個性を活かせる集団が求められている」という方向性があって、「子供の得意分野や発達のスピードは一人一人異なる」という理解が進む中で、学習者中心に対応するには、限りある先生側のリソースを何に投入して、どこをテクノロジーで補うかの議論が必要です。

学習者中心というコンセプトは、まだまだ絵に描いた餅です。テクノロジーの活用だけではなく、教育の目的から考えさなければならないし、それが多様化するということは、個々の学習者(学習者が子供であれば親に)に大きな責任がのしかかってきます。
現時点では、どこから手を付けたら良いのか、悩ましい課題ですが、先進国とされている国々の状況から個別解を探り、そこから自身の環境での個別解を探るというのが現状では無いでしょうか。個別解ばかりなので公立校への展開の難しさをより感じます。

 

ちなみに今回のクラスでの最高記録は75cmでした(拍手!)
当初のクラスの様子からは記録ゼロが続出ではないかと心配していましたが、最高記録の作品はヤジロベエの様にバランスを取る部分があって、構造的にも試行錯誤から自立させるための学習の後が見られるものでした。
サンプル数は少ないですが、小学校1年生は、上手くその気にさせられれば、少なくとも大人同等、それ以上のパフォーマンスを出せそうです。

大阪の蝉が、東京の蝉よりうるさい理由

Written by 山田 竜也 on 2019-08-12

地球温暖化という言葉を最近はあまり耳にしませんが、連日の猛暑の中、真実はどこにあるかよりも、どう考えても暑い!というのが、我々の実感値ではないでしょうか。
個人的な気付きですが、暑さともう一つ実感値として感じたのが
「大阪の蝉は、東京の蝉よりうるさい」です。
昔は蝉時雨という言葉には、騒々しいだけでなく、どこか涼しげな響きもあった気がします。でも、最近はただただ暑い!うるさい!という印象で何の風情も感じません。

 

中之島                      丸の内

きっかけは最近仕事でちょくちょく行っていた大阪の都心と東京の都心での蝉の煩さの違いです。梅田から堂島を抜けて中之島辺りまで歩くと道路の照り返しで暑いのはもちろんですが、蝉の煩さで余計に煩わしさが増します。
東京も同様に少しの移動も地下に潜りたくなるぐらい暑いのですが、蝉の声はそれほど気になりません。もちろん東京にも蝉はいますし、都心の公園でもよく抜け殻を目にします。何が違うのだろう?と調べて見たら自分なりに納得のいく仮説が見つかりました。

 

「大阪の蝉が、東京の蝉よりうるさい」のは、
 ・蝉の種類が違うから
 ・一種類の蝉が支配的だから

 

実は、日本の気温の上昇により、元々南方にしかいなかったクマゼミの北限が上昇している様です。そして、大阪の都心はこのクマゼミに支配されつつあります。大阪では都市部の中心部にいくほど「シャッシャッ…」というクマゼミの鳴き声の割合が増えます。かつて大阪で最も多かった種類はアブラゼミだったが、昭和50年代後半を境にクマゼミが逆転し、都市部の大阪市では、いまや90%以上を占める様です。

そして、クマゼミが都市部で圧倒的な強さを誇る理由は、「孵化(ふか)の時期」と「クマゼミの幼虫のある“特技”」が鍵を握る可能性が浮上している様です。さらに詳しく知りたい方はこちらの記事をどうぞ。

クマゼミ                    アブラゼミ

また、セミはそれぞれ鳴く時間帯が違います。昔は、鳴く蝉の声で時間の変化を感じたものですが、クマゼミ一色になると、ある時間帯にだけ騒音の様に降り注ぐという事になります。

 

セミの種類(鳴き声)     その出現期間(時間帯)
ニイニイゼミ(チーチー……)  梅雨明け~9月、早朝から夕暮れ
アブラゼミ(ジージジー……)  7~9月、朝方と午後
ミンミンゼミ(ミーンミンミン……)  7~9月、午前中
クマゼミ(シャーシャー……)  7~9月、午前中
ヒグラシ(カナカナカナ……)  7~8月、朝か夕方
ツクツクボウシ(オーシツクツク……)  8月後半~9月、朝方と午後
 音源:www.kodomonokagaku.com

 

後退する氷河

Großer Aletschgletscher: links 1979, mittig 1991, rechts 2002

こうして写真で見ると一目瞭然ですよね。
何かに違和感を持ったら、事実を探して数字を掴むと意外な発見に辿り着くことがあります。この発見から仮説を立てるとビジネスのチャンスになることがあります。クマゼミとアブラゼミの戦いには特に解決すべきジョブはないかもしれませんが、クリステンセン教授の最新刊「繁栄のパラドックス」に登場するリチャード・レフトリー氏は発見した事実から解決すべきジョブを見つけ保険の無消費層を救うビジネスを生み出し新たな市場を開拓しました。

レフトリー氏が見つけた事実は、「自然災害による地域別の死傷者数ではバングラデシュ、パキスタン、インドが突出しているのに、これらの国々は保険金の総支出額ランキングには全く顔を出していない」というものでした。
この数字を見ても「そんなの当たり前だよ、彼らはお金が無いのだから仕方ない」と諦めてしまうのが、ほとんどの反応だと思います。しかし、レフトリー氏は「経済的余裕が無いからこそ、家族を襲う危機に対して備えを持ちたいはず」という仮説を立て、これを解決するために、これまでとは違う引受条件とチャネルで販売するMicroEnsureというサービスを開発しました。現在では20カ国以上、5,600万人超の契約者を獲得しています。

 

・違和感を感じるセンサーを持つこと
・感じたらその背景を探ってみること
・未解決のジョブを見つけたら、業界の枠に囚われずに解決策を考えてみること

一つ一つ時間はかかりますが、着実に実行し続ければイノベーションの芽を育てることができます。

 

大阪と東京を往復する機会があったら、鳴き声の違いに気をつけて見ませんか。地球環境の変化を身近に実感できるかもしれません。

『天気の子』に観る革新と伝統、そして未来を創るために必要なリベラルアーツ!?

Written by 津嶋 辰郎 on 2019-07-26

7/19に封切りされた新海 誠監督の最新作『元気の子』。早速鑑賞してきたところ、この作品はお盆直前の今というタイミングで見てみることにも意味があるんじゃないかと思い、感じたことを少し言葉にしてみたいと思うに至った。新海監督の作品をご存じのない方も、また違った視点で興味を持って貰えたら面白いと思う。


2016年に公開された『君の名は。』で一躍有名になった新海 誠監督であるが、1971年生まれの同世代アニメーターということもあり、10年以上前にたまたま目にした自主制作での劇場公開作品でもある『ほしのこえ』をきっかけとしてから継続的にチェックしてきていた。同世代の監督作品には、同じ時代を歩き見てきた景色と影響を受けてきた作品からのより多くの共感点をみることができる。そして、大人になっても変わらない、時空を越えるいわゆる日本人的へたれロマン?!・・・これが世代を越えた監督の作品に共通する魅力だと思う。そんなアニメ監督ではあるが、実は奥さんも子供も女優と子役という芸能一家でもある。


本作品もタイトルのテーマでもある「晴れと雨」を中心として、『君の名は。』同様に多くの対比を用いてそれぞれの立場が違う目から見た世界を表現することで、多様化する現代において誰もが普段気づきにくくなってしまった現実世界の深みを描いているように思えた。


ネタバレにならないように作品の話はこれくらいにしておいて、作品がスタートしてすぐに私の目を引いたのは、ストーリーの中でも重要な象徴となる代々木駅近くのビル(実在する代々木会館がモデル)の屋上に位置する神社(これも実在する銀座駅近くの朝日稲荷神社がモデル)の鳥居の前に置かれた、キュウリとナスに割り箸をさして作った二体の人形である。そして作品の中盤に登場するおばあちゃんが語る、旦那の初盆にまつわる習わしに関する話である。


この作品では”お盆”という名目で、当然の習慣として夏の帰省をしている我々日本人に対して、改めてその意味を思い起こさせる仕込みが含まれている。

 

東京と離島、新宿のビル群と古びた神社、子供の心と大人の心・・・
そこに共通して存在する革新と伝統 の共存


テクノロジーが切り開く未来は本当に我々が求めている世界なのか?我々が実現しようとしているイノベーションは、果たして人類を今以上に幸せにできるのか?


新しい事業となる製品・サービスが世の中に普及するということは、良くも悪くも未来の子供達の世界に大きな影響を与える。不安定で不確実、そして複雑で不明確・・・いわゆるVUCAと言われる時代の中、この問いに自信をもって踏み出していくために必要な知識や知恵が必要になっていることが、昨今リベラルアーツが注目を浴びつつある背景でもある。


しかし、事はそんなに単純ではなく、それぞれの領域に分断された知識や情報をどれだけインプットしても、それらを効率的に有機的に繋げる学習方法は今の所存在しない。それは残念ながら一人一人の人間の中で繋いでいくしかない。そしていくら自分の中で繋ぎ合わせたとしても未来は何も変わらない。リベラルアーツを活かすにも、結局は実践という過程は不可欠である。これもまた二元論では答えは見つからない対比の一つである。


いまだ日本の至る所で新しい事業の”アイデア不在”の議論が行われている。しかし、実際我々が事業立ち上げの現場の最前線で時間を過ごす中で、事業のアイデアが不足していると感じたことは一切無い。そしてアメリカや中国に比べて新しい技術に遅れをとっていると感じた事も無い。では何が足らないのか?

 

多くの人がワクワクする課題を設定し、そこに自らのコミットメントをもって人を集められるリーダーが足りていない


リーダーとまで言えなかったとしても、我々一人一人が未来にとって自信を持つためには、日本という特殊な島国おいて先人が歩んで来た歴史や伝統から、もっともっと学ぶべき事があると新海監督も作品を通して伝えていると感じる。


私事ではあるが、昨年の7月末に義母が、そして翌月の8月末に母方の祖父が他界した。


ちょうど先週末に、義母の一回忌を義父が先に眠るお寺においておこなった。そこで住職から7月という今のタイミングということもあり、お盆についてのお話を伺っていた。お盆とはもともと仏様となった先祖を自宅にお迎えして一緒に過ごす時間である。そして、ご先祖様が自宅に来るときにはできるだけ速く、そしてお盆をゆっくり過ごした後に仏の国に帰るときにはゆっくりと名残をおしみながら帰って欲しいう意味を込めてキュウリは馬、なすは牛に見立ててお飾りするんです・・・と。

そして東京が日本の中心になり、多くの人が地方から上京するようになってから神奈川と東京は、8月から1ヶ月ずらして7月にお盆を行うようになった。こうした伝統的な風習もそこで暮らすライフスタイル変化によって変わってきたということも。そういう話を聞いていたからこそ、この作品の中に描かれているキュウリとナスの人形が何より目を引いたことは間違いない。


自分が子供のころに我が家の仏壇に飾るために、キュウリとなすの馬と牛を両親と一緒に作った記憶がある。しかし、今の横浜の自宅にはもちろんそれはない。住職の話を聞いたときも、一緒にいた自分の子供にはそのイメージすら頭の中にも浮かばなかったのではないかと思う。最近自分も母国の伝統や文化に関する子供のなぜ?に答えられないことが多いことを実感する。

小学生にとってまだその意味の深さは分からないかもしれないけど、改めてその意味を調べた上で、この夏の帰省の機会に少し伝えてみようと思う。