鳥人間コンテストの最近のブログ記事

津嶋による昨年のこちらの投稿がちょっと前にかなり反響があったので、もう一回シェアしておきたいと思います。
鳥人間チームを立ち上げ、2度の優勝を成し遂げたあと、後進に何を伝えたのか?
人力飛行機というハードコアな勝負の世界で、新しい機体を考案し、つくり、飛ばした裏にあるチーム、設計、実行が過不足なく表現されていると思いませんか?


一つ一つの言葉が古くなっていないどころか、長い時間をかけ、変わらない本質がはっきりした今だからより価値を感じるのかもしれません。
学生時代にこれだけのことを言葉にして後進に伝えていることも正直驚きのポイントですが。。。

ものづくりに行き詰まりを感じたり、仲間をちょっとだけ信頼できなくなったり、現状にモヤモヤを感じたり、ちょっと違和感を感じたらぜひ読んで頂きたい文章です。
14590020_10207727935188238_4610823962396228779_o.jpg


Wind Mill の未来を創るために 津嶋 辰郎


1 チーム運営について
 今までしつこいほど繰り返している事であるが、「WindMill Club」というのは名ばかりで「クラブ」ではなく「チーム」である。なぜここまで「チーム」にこだわるかというと、活動内容から判断して「クラブ」という形態、または個人の意識レベルではやっていけないという考えがその根底にあるからである。
 ここ2、3年毎年大なり小なりチームのマネジメントにおける問題が生じている。これらのほとんどは「運営」「個人の意識」に問題があるように感じている。しかし、極限状態にある本人たちはその事に気づいていない。そこで、「チーム」とは何か?という事をもう一度考え直してほしい。
 このチームは「エンジニア」としてのトレーニングの場だけでなく、組織のマネージメントの実践の場でもある。リーダーをはじめとする幹部は、このことを常に頭に置いておかなければならない。どういった組織を作るのか、どうやってメンバーの意思統一をメンタルアップをするのか、資金繰りはどうするかなど考えることは山ほどある。これらの事が満たされて、初めてチーウとして機能するようになる。良いチームかどうかは、すべて「幹部」の人間にゆだねられているのである。そう考えると、ボーとしている時間なんか全くない。寝る前、トイレの中、大学の行きかえり、すべての時間を使ってでもチームのことを考えるぐらいでないと、これだけのことを満たすのは無理である。1年ぐらいそれくらいの覚悟が必要であることは意識してほしい。
 あと、必ず必要なのはメンバーお互いの「信頼」である。リーダーは「不在」というのは言語道断。活動には毎日参加するのは最低限のこと、メンバーより数倍は働くぐらいの意気込みが必要である。また、10の努力も1のサボりで帳消しになってしまう。活動がハードなときは「病気」ですら他のメンバーにとっては「言い訳、サボり」の口実にしか感じられないということを意識しておかなければならない。同期のメンバーは比較的簡単であるが、下級生、上級生の信頼の確保は決して容易ではないという事を感じて欲しい。
 次に幹部はこの信頼の下にメンバー一人一人の居場所を確保してやる。「一人一人が活動している。」「チームには自分が必要だ。」という事を感じさせなければならない。そのためには「適材適所」を念頭に、その個人の良さを生かすことができる役割を任せてやる。そういった目を養うことも必要である。
 これらを挙げていけばきりがないが、どこの大学もすべてこのマネージメントの失敗でつぶれている。それだけ、人力飛行機政製作チームの組織の運営が難しいということである。みんな悩んでいる。そういった中、うちがどこでアドバンテージを作るか?それが課題である。

2 設計について
 設計とは定められた制約の中で、目的とする最大の性能を発揮できる妥協点を探る作業である。しかし、様々なトレードオフの関係を考えているうちに、本来の目的を見失っていまうことが多い。そこで設計中は常に以下のことを念頭において欲しい。

  • 目標を達成することが可能であるか
  • コンセプトがハッキリと定められているか
  • 必要パワー、機速、サイズ、形状など...

もう今となっては古臭いものであるが、例として96年のB.B.の設計コンセプトを以下に示す。
  • 高い運動性を持つ
    →上半角を小さ目にとり、静安定を下げる。
    →ラダーの効きを高くとる(垂直尾翼アスペクト比と、翼面積の兼ね合い)。
    →プロペラ後流の速度増分を考慮。
  • 機速をやや高めに設定する (琵琶湖においての正対速度 2m/s以上を予測し 7.5〜8.5m/sに持っていくことを仮定)。
    →翼面荷重をやや大き目にする(リブ間隔との兼ね合いを考慮)。
    →機速によるプロペラの効率との兼ね合いを考慮(必要推力、必要馬力)。
    →○高アスペクト比による、誘導抗力の低減。
    →主翼(尾翼)平面形の検討。
  • 静ボリューム比の極小値の模索
    →静ボリューム比、動ファクターを小さくとってみる。
  • 主翼吹き降ろし、フェアリングの後流のプロペラへの影響を検討
    →できるだけ主翼からプロペラを離す(ドライブシャフトの長さの限界)
    →フェアリングの断面の検討
  • CFRPの軽量化
    →○主桁への曲げモーメント、せん断力、ねじりモーメントの計算。
    →○高弾性HR40の使用。
    →○CFRP強度の検討(積層順番の検討、繊維方向の検討)
  • 高性能プロペラの設計
    →○航技研のプログラムを使用
    →DAE51の採用

 設計者に必要なのは、物事の本質を見極める「目」と経験から導かれる「直感」だと考える。「今何が最も必要なのか?」「どこに最も時間を費やせば良いのか?」どれだけ寄り道せずに、機体が進んでいくべき「ベクトル」を見つけるか?これが重要なのである。これらの判断を下すには、幅広い知識は必要不可欠である。歴代機体、国内に限らず、世界中の機体について、つねにアンテナを張って情報収集は欠かさないようにするのは当然の事である。次に新たな試みをするにあたって、必ず押さえておかなければならないことは以下のようなことである。
  • 人力飛行機の技術的な変遷と歴史的な流れ
  • 歴代の機体の諸元、構造の理由
  • ◯歴代の機体の利点と欠点
  • 新たな試みによるメリット

3 製作について
 このところ作業の効率の悪さが目に付く。これらは「要領」の問題だと感じている。こだわるのもいいが、そのこだわりがどこまで重要かを考えてから作業に取り掛かるべきである。「設計製作:セッティング=50:50」ぐらいで考えてもいいのではないか。特に以下のことを念頭において作業して欲しい。
  • 作業はダイナミックにスピーディーかつ正確に!
  • 重要な部分はとことんこだわる。どうでもいいところはすばやく。
  • 構造や製作方法は修復、時間を考えできるだけシンプルに。
  • ボーっと作るのではなく、新しいアイデアを考えながら。
そもそも設計製作はクリエイティブな作業である。もっと自分のアイデアを盛り込んで、より発展を目指して行うべきだと考える。そのためにはメンバー一人一人が人力飛行機について、幅広い知識をもたなければならない。ここ数年言いつづけていることであるが、もっと情報に貪欲になってもらいたい。今のM2の代が卒業すると、多くの知識が失われてしまうような気がしてならない。人力飛行機の世界も突き詰めていけば、非常に深くそして発展途上であることが分かると思う。このように感じられて初めて、「設計」をする資格ができたの言えるのではないだろうか。飛行機が分かっていない奴には、当然良いものを設計することはできない。その辺りの認識今のチームには明らかに欠けている。
 人力飛行機は今大きな壁にぶち当たっている。この壁を突破する可能性を持っているのは、君たちのアイデアなのである。今後の発展に期待している。

無事機体設計を終え、大会に向けて作業を進める毎日をすごしていた3月、突然その日がやってきた。

工房に到着すると作業テーブルとして使っていた畳一畳サイズのベニヤ板の上に一枚の葉書が届いていた。先に到着していた中尾に何かと聞くまでも無く、それが今年の大会出場の可否を決める書類審査の結果であることはすぐに分かった。自転車から飛び降りてダッシュでその文面を見ると、

専門家による厳選なる審査の結果、落選と判断させていただきました

が〜ん・・・ し〜ん・・・ ち〜ん

自分の中で完全に時間が止まった。可能性はゼロではないとは思っていたとはいえ、想定という意味では、ほぼゼロでだったためバックアッププランなんて全く考えていなかった。

まず何より思いついたのは、チームリーダーとしての責任感からか

今年一年どうしよう・・・何をしてすごそうか・・・

である。悔しいとかそんなんじゃ無く感情としてはニュートラル、頭の中が真っ白とはまさにこういう状況をさしていうのではないだろうか。

そこにもう一人のメンバーの健ちゃんがやってきた。自分達の雰囲気を見て事を察したようだ。そこには言葉は殆どなかった。三人が放心状態で作業台を囲んでいるときに、おっちゃん代表の中野さんがやってきた。

 中野:「どないしたんや?人生終わったような顔して?」
 津嶋:「いや・・・書類審査に落ちました」

 (少し沈黙)

 中野:「ほ〜ん、それで理由は聞いたんか?」

 津嶋:「理由を聞く?? 理由を聞くって言ったって、葉書での通知ですよ。」

 中野:「それやったらなおさらやろ。そんな紙っぺらでおまえらは納得するんか?おまえらの思いはそんなもんなんか?」

 津嶋:「・・・納得って言われても、どうすることもできないじゃないですか??」

 (ちょっと興奮ぎみ)

 中野:「葉書には普通連絡先が書いとるもんやろ、事務局とかなんとか・・・納得できんのんやったら電話して理由を聞いたらええやろ。」

 (確かに・・・)

 津嶋:「でもこういうのって誰に聞いたら・・・」
 中野:「そりゃぁ審査した責任者と話したいってゆ〜たらええやろ。それかプロデューサーとかなんとかいうのがおるやろが。」
 
 津嶋:「中野さんもしかしてプロデューサー知ってたりするんですか?」
 中野:「俺が知るわけないやろ」

 (沈黙)

 津嶋:「つながりますかねぇ」
 中野:「そんなん知らんわ、俺には関係ない話やからな・・・おまえらの好きにせぇ〜や。わっはっぁ〜」

この会話を通してまず自分の中で雷が落ちた・・・葉書を見たときに事務局に電話してみるなんて思いつきもしなかった。

その一方、中野さんにも試されてる・・・とも感じた。ここは引き下がるわけには行かない、「では準備してから・・・」なんて言ったらまた一蹴されるに決まっている。一度深呼吸して、工房横の中野さんの奥さんが働く事務所の電話を借りて電話してみることにした。

プルプルプル・・・

 事務局:「はい・・・読売テレビ鳥人間事務局です」

 津嶋:「あ・・・はい。え〜・・・鳥人間コンテストの書類審査に申し込んだ堺・風車の会の者ですけれども」

 事務局:「はい。いかがいたしましたでしょうか?」

 津嶋:「あ・・・本日、審査結果が届いたのですが、結果は落選ということでした。でも自分達は本気でがんばっておりまして、今年は絶対飛べるって思ってるんです。落選の理由を聞きたいと思っておりまして・・・え〜そこで審査の関係者にお繋ぎ頂きたいと思っておりまして・・・」

 事務局:「少々お待ちください」

 (少し沈黙)

 事務局:「今回の結果は大変残念なのですが、そういうお問い合わせに対しては個別に対応はしないことになっておりまして、申し訳ありませんがお引き取りいただければと思います。」

 津嶋:「え〜、そこをなんとかお願い出来ませんか?一言でもお話が聞ければ自分達も納得できると思うんです・・・お願いします。」
 
(うん?何を言っているんだか分からないがとにかく必死に食らいつくしかない)
 
 事務局:「申し訳ありません」

ガチャン・・・プー、プー、プー

 中野さん:「ど〜やった?納得できる話は聞けたんか?」

 津嶋:「いや・・・個別には対応できないということで断られました。」

 中野さん:「わっはっは〜そうか。事務局もつめたいよなぁ〜。」
 
 (そんな笑われても・・・そもそも繋がると思ってなかったんじゃぁ??)
 
 津嶋:「普通こういうのって繋がるもんなんですか?」

 中野さん:普通??・・・そんなん普通なんかあるわけないやろ。あの手この手で繋げるんや。」

 津嶋:「・・・」
(まぁ言いたいことは分かりますが・・・そんなに手の内ないし・・・)
 
 (沈黙)
 
 中野さん:「で??もう諦めたんか?」

 津嶋:「え??・・・もう1回電話しても、同じことになりそうなので・・・」
 
中野さん:「はぁ?これやからおまえらはダメなんや。プロデューサーはどこに出社しとるんや?」

 津嶋:「まぁそりゃぁテレビ局じゃないですかね。」
 
 中野さん:「せやろ・・・テレビ局にはどうやって入るんや?」
 
 津嶋:「そりゃぁ入り口からですよね・・・(なんでこんなことを聞く??・・・もしや)」

 中野さん:行ったらええやん?その入り口に。毎日待っとったら会えるやろ。おまえら学生やし、大阪に住んどるんやからそれを活かさない手はないやろ。頭は使うためにあるんや、飾りやないで」

 津嶋:「(きた〜この突っ込み)・・・ですね。ちょっと作戦考えてみます」

再び自分の中に雷が落ちた・・・。自分の枠がこの瞬間一気に吹き飛んだ。これかぁ・・・自分がずっと違和感を感じていた・・・そしてなんか重いと感じていた枠、壁、錨・・・の存在に気づいた。

会いたい人に会うための手段・・・これを外せば選択肢はいくらでも考えられるじゃないか・・・しかし、こんなん本当にうまくいくんやろか??ありなんかなぁ??不安と疑問で一杯の中、プロデューサーにどうやって会うか?それを考えることにした。

その翌日、いろいろ考えたが結果的に正面突破以外の妙案が見つからず、早朝に社員用の通用口前にでも会えるまで毎日通うしかない・・・という覚悟で、テレビ局近くに住んでいた中尾とスケジュールを考え始めていた。

その時、中野さんから奥さんから、

「津嶋くん・・・なんか今日読売テレビから電話があってね、このプロデューサー宛に電話して欲しいという事みたいよ。なんやろね?」

あらら・・・どうやら会いたかったプロデューサー宛てに電話して欲しいとのことらしい。こっちの思いが伝わったのかな??よく分からないけど、とりあえず電話してみることにした。

わぉ!どういう事の変化か分からないが、どうやら会うだけは会ってくれるらしい・・・指定された日時に中尾と二人でテレビ局に訪問することを約束することができた。


そしてその日がやってきた。二人は当時まだ18歳、有名企業の・・・しかもテレビ局で打ち合わせをするというだけでも心臓バクバクのシチュエーション。しかも自分が挑戦しようとしている番組のプロデューサーに書類審査落選の撤回交渉をする?!という極めてチャレンジングな場に臨むことになったわけである。

 二人:「こんにちは」
 プロデューサー(P):「いやぁ、よく来たね。」

(あら・・・色黒の少し強面の方ですが、想像以上にフレンドリー)

 津嶋:「今日はお時間を頂きましてありがとうございます。」
 P:「要件は分かってるよ。ただ審査は専門家の評価を元に平等に実施されているからね。その結果として、君たちの機体は不完全という判断が下されていたんだよね・・・。」

 津嶋:「どの辺りが不十分でした??図面だけでは伝えられない事が沢山あると思うので、今日は他の資料や写真も多数持参しました。これらを見て頂ければ、飛ぶ機体だということを理解頂けると思っています。」

 P:「う〜ん・・・気持ちは分かるけどね、審査は基本図面だけで行われてるんだよね。補足資料があったとしても君たちだけ例外というわけには・・・」

 津嶋:「それは分かっておりますが、よろしくお願いします(とにかく思いを伝えるしかない・・・)」

 (沈黙)

 P:「まぁね。君たちの思いは分かった。ただ同じような理由で落選しているチームは沢山あるんだよね。君たちは、たまたま大阪にいたからこうしてここに来れているけど、そう簡単にこれないチームも一杯あるんだよね・・・ただ確約はできないけど、今考えていることをすべて図面上に描いてみて。一応、内部で再検討することだけは約束するよ」

 二人:「ありがとうございます。必ず納得していただく図面に仕上げます」

お〜!!!いけるかもしれない。帰りはこれを期におっちゃんに任せっきりだった図面を自分達でやろう。短期間にCADのオペレーションをマスターしてプロデューサーをうならせる図面を描くぞ!と心に決めて、二人で大興奮で帰路についたのである。


ここからはプラント設計をしていたおっちゃんメンバーの会社に通い、CADの使い方を教わりながら、以前はA3だった図面を大型プロッターを活用してA0サイズ(841mm×1189mmの大判)の図面の中にとにかく様々な情報を盛り込んだ図面を形にしていった。この辺り目標ができたら強いのが若い力である。おっちゃんメンバーにも協力してもらいながら毎晩夜遅くまでの作業を繰り返し、期限までに自分達としても納得のいく図面に仕上げることができた。


EgretDrawing.gif
そして約束の日時に大きな図面を抱えて自信をもって再びテレビ局に伺うことになった。
プロデューサーからは、なんと!

「思いと図面は受け取りました。君たちを応援したいと思います。」

その一言の後、社会を知るための尺度の持ち方についての考えを時間を掛けてお話いただき、ご自身が担当している他の番組の見学も約束してくれた。


落選の葉書を受け取ってたどん底からの怒濤の2週間・・・正直何が起こったのか、正直自分の中でもうまく整理がつかないでいた。

ただ・・・この2週間の自分達の行動で、我々の未来が180度変わった事だけは真実である。


笑顔一杯で工房に帰った。まず何より中野さんにその結果を伝えたかった。

 津嶋:「中野さん 今年出場できるようになりました!信じられません。奇跡ですよこれ。」

 中野:「何が奇跡や?!おまえ全然わかってへんなぁ。世の中は何でも自分達と同じ人間が決めとるんや。神様が決めてとるわけやないんや。おまえらがつかんだ結果やないか・・・奇跡なわけないやろ。分かったか?」

 中野:「・・・でも良かったな。」「プロデューサーは応援するっていうてくれたんやろ。今度はおまえらがその期待に応える番やぞ。約束は守るもんやで」


この一連の出来事は津嶋自身にとって人生への向き合い方のパラダイムを大きく変えることになった。
そしてこれをきっかけにしてWindMill Clubの活動は大きく加速して行くことになる。

そして何よりこの出来事の裏には、1年半後に初めて分かった真実のサイドストーリーがある。
気になるかと思うが、それはまだまだ先の回にとっておこうと思う。 


パイロット中尾がトレーニングに勤しんでいた一方、リーダー津嶋&他のメンバーも日々の過ごし方を試行錯誤していた。

大学に活動場所を確保したいという思いで、学生課の門を叩くも・・・新しい文化部連合所属クラブを作るとなるとまだ実績もないチームでもあり、ここ数年新規としては前例がないということで、具体的な検討にすら上がらない。学内にどこか拠点を・・・と活動場所の検討をお願いしても、部室の空き待ちで当分その予定はなしと断られる。

すぐに大学公式のクラブ化は難しいとしても、来年の鳥人間コンテストへのエントリーチーム名に大学名を入れても良いか?という問いに対しても、大学のダメっぷりが全国ネットで流れるかもしれない・・・可能性もあってか、

 いわゆるノーコメント・・・

である。

その当時はこれだけ自分達は本気だし、

 大阪府大という全国的には微妙なポジションでマイナーな?!大学を全国ネットの有名TV番組で大きく宣伝するいい機会になる・・・

という思いでやってるのになんで??なんで??という気持ちであったが、今思うとまぁ普通の大人の対応である。

大学側の調整は全く進みそうにないので、1年目の拠点は中野さんの会社の倉庫を工房とすることを決めて、バイトで行けない日を除いてここに通うことに決めた。しかし、実はこの工房中野さんの自宅と直結していたこともあり、工房に伺う日はほぼ毎日奥さんが夕食をメンバー全員に振る舞ってくれていた。

そして鳥人間の飛行機工房として認知が進むにつれその近所のおっちゃんやおばちゃん達とも仲良くなり、


「毎日がんばってんな〜」「今年はがんばってや〜」「応援してるで〜」


という暖かい言葉や様々な差し入れが届けられる空間になっていった。


これがこの工房が自分達にとっての
第二の自宅とも言えるほど思い入れが詰まっていった所以でもある。 


また機体製作に必要な工房とおっちゃん達のもろもろの支援はあるにせよ、いろいろ活動費用が掛かってくることを想定して、部費は毎月7000円と学生としては結構高めに設定した。今後新規に加わるメンバーからは高いだのなんだの常にクレームに繋がっていくことになるが、今思うとこれも活動に対するメンバーのコミットメントにもなっていたと思う。


鳥人間コンテストに出場するためには、活動としての大きなマイルストーンは、チーム層が厚かった当時倍率10倍とも言われていた(実際は知らないが・・・)非常に難関の

書類審査

というものを通過しなければならない。一年目は産官学連携チーム ×女性パイロットという話題性でなんとか突破できた実績があるものの、全く結果を残せなかった2年目のハードルはむしろ高くなっていることは誰にでも予想された。正直テレビ局の論理もよく分からなかった純粋な若者にとっては、

とにかく今年からは本気モードなので、確実に飛ぶ機体を設計する

という真っ正面突破的なアイデアしかなかった。

そのためには実績の高いスタンダードなトラクタープロペラ(機体の前方にプロペラを配置)レイアウトで、翼幅も25m前後で、駆動系もチェーン駆動という当時定番のスペックの機体でまず実績をつくる・・・というのがこの時に描いた青写真だった。

それに並行して活動として、

 ・そもそも人力飛行機ってなんぞやという最低限の知識

 ・飛ぶ機体の製作技術

を身につけていった。

しかし、人力飛行機を学ぶといっても世の中に一般的に出回っている資料は殆ど無い。当時はまだインターネットも無かったため、図書館や関係者から資料や論文を譲って貰うしかてはない。今と比べると情報収集はかなり手間がかかった。

その中でも意外に高校時代から使っていたのが今の若者は殆ど知らないであろういわゆる"パソコン通信"・・・その中でもNifty-Serveにあった鳥人間フォーラムは情報交換の場として非常に役にたった。現役鳥人間は少なくOBが多い印象ではあったが、特に同時期にチームをスタートしていた東京都立大学を初めとする数名の方々には、このフォーラムを通して多くのことを勉強させてもらった。


しかし、当時はまだまだCADも身近ではない時代。工房には製作に必要な道具は最低限揃ってはいるものの製図に必要な道具はなかったこともあり、申請書に向けた機体の図面化はおっちゃんメンバーの中の一人の増本(仮名)さんにお願いしていた。

ただ・・・体を動かす製作から入った自分達には図面がないと製作できないという意識は全くなく、身近にある材料を組み合わせながら手探りで製作には着手していた・・・ある意味、製作先行で図面は後追いで描いていたいたのが実態に近い。

正直いうと数ヶ月の学習から飛行機が設計できるようになるとは、この時到底思えなかったのである。航空宇宙工学科なんだから相談できる先生が沢山いるだろ??という突っ込みもあるかもしれないが、

航空宇宙工学科といえでも実際に飛行機を設計したことのある先生は・・・いない

かも、もっとも近いテーマを研究している学科の先生に入学時に全否定された手前、聞きに行くわけにもいかない。(ここは最低限の自分達のプライドってやつだったかな)

誰もそもそも論を語らない、語れない・・・目の前にあるものといえば過去の機体の映像とバルサ材、発泡スチロール、フィルムという材料とカッターナイフや接着材という道具のみ。

昨年は深田さんの指導のままに分け分からず作っていたが、今度はその中で学んだことを自分達なりに解釈して自分達で方針を決めて作る。つまり、製作という実践を通して体で学んで行くしかない。

結果的にこのアプローチが自分達の人力飛行に対する学びを飛躍的に加速させた


そんな日々を過ごしているうちになんとなく行けそうな気がしてきた。自分達の期待が琵琶湖の大空に舞い上がっていくイメージが描けるようになってきた。

同時にパイロット中尾のトレーニング成果も出てきて順調に力を伸ばしてきている。

飛べる!あとは無事書類審査に通りさせすれば・・・


IMG_20151030_0068.jpg
この時、自分の人生を大きく変えることになる波乱がこの後起こるなどとは全く想像もしていなかった。


20年経っただろうからもう時効だろう・・・だから当時起こったことをそのまま描きたいと思う。

この後の出来事を通して津嶋自身のパラダイムが大きく変わることになる。これが自分にとってもそしてこれからのWindMill Clubにとっても進化になる。


乞うご期待ください。


初めての大会の悔しさをバネにやったるぞぉ!

と・・・活動をスタートしたわけではあるが、結局何から着手をしたら良いか分からない・・・。設計図もない飛行機をいきなりつくるわけでもなく、活動計画もそもそも設計、製作にどれぐらい掛かるかも検討もつかない。

とりあえずパイロット中尾はトレーニング、その他のメンバーは身近にある資料や飛行機関連の書籍をあさりながら人力飛行機はなんぞや??というそもそものところから勉強に着手したのである。


それはそれは、華やかな大会のイメージからすると極めて地味な毎日。


・・・自ら作業をつくっていかなければ何にもすることがないそんな感じである。

IMG_20151030_0071.jpg
2回目のチャレンジの桟橋にて:ここを目指すまでのストーリー


まずはパイロット中尾の1年目の試行錯誤の日々を紹介しよう。

初めての鳥人間コンテストが残念な結果で終わったおかげで単に「パイロットやりたいなぁ」という思いから「絶対に飛びたい!」という思いへ変わることができた。もしそこそこ飛んでいたら「こんなものか」となめていたと思う。

ということで悔しさをバネにパイロットを目指してトレーニングを始めることになったが・・・
今はネットで検索すれば自転車情報は山ほど出てくるが、当時はネットもなくスポーツ自転車自体がマイナースポーツで情報が少なかった。
それまで自転車といえばママチャリしか乗ったことがなく、自転車競技をやっている知り合いもいない。何が分からないかも分からない状態の中、手探りで進めていくほかなかった。

何はともあれまずは自転車がないと始まらない。しかし、学生は基本的に貧乏であるため、いきなりすべてのグッズを揃える余裕なんてない。スタートしたばかりのクラブにももちんお金がない・・・。

幸いにもおっちゃんの一人が乗っていないマウンテンバイクを譲ってくれることになった。

次は服装。
ヘルメットは前パイロットが使っていたものを譲り受けたが、あとは高校の部活で使っていたジャージにTシャツ、普通のスニーカーという全く自転車乗りらしくない格好で僕のバイクライフはスタートした。もちろんサングラスやグローブもない。

今は恥ずかしくてとてもそんな格好では乗れない。当時の写真が残ってなくて本当に良かった(笑)


とりあえず最低限の道具は揃ったのであとは練習あるのみ。
もちろん自転車の練習方法は全く分からなかったが「とにかく乗れば体力はつくだろう」ということで自転車通学(片道約20km)をすることにした。

こんな感じで恐らく必要最低限以下の装備と知識でパイロットに向けたトレーニングは始まった。


自転車通学を始めてすぐに困ったのは、当時大学未公認だったため部室のような拠点となる場所が学内になかったこと。

なので汗だくで大学に到着したら図書館のトイレで着替えていたし、教科書や辞書を毎日全てリュックに入れて自転車通学したがこれは腰がつらく、一週間もしないうちに「これではやってられない」と思うようになった。


そこで、当時大学から6kmぐらい離れたおっちゃん代表の中野さんの自宅倉庫を工房として使っていたのだが、そこに寄ってから大学に行くことにした。

朝工房まで自転車で行き(約22km)、工房に置いてあるエアロバイクを2〜30分こいでから着替えて大学に向かい、帰りも工房で着替えてから家に帰る。工房を拠点として荷物も置かせてもらうことでとても楽になった。
このパターンはしっくりきてパイロット時代はずっとこれで通すことになる。早い段階でよい生活リズムを確立できたことがトレーニングを継続できた一つの理由かなと思う。


通学というのも大きな強制力になった。
定期券をやめたので電車でいく時は自腹。そうなると貧乏学生としては少しでも交通費を浮かしたい。雨とバイトの日以外は何が何でも自転車に乗ろうという気持ちになる。
こうして自転車でトレーニングすることが習慣になっていった。


道具はバイト代を投資して少しずつグレードアップ。

最初はレーサーパンツ。やっぱり普通のジャージはバタバタして走りにくいしお尻も痛い。これに変えてとても走りやすくなった。

次はビンディングペダルとシューズ。それまでのスニーカー&トゥクリップとは雲泥の差の快適さだった。

そして、たまたま見つけた型落ちバーゲンセールのバイクジャージを購入。やっぱりTシャツよりも快適。一度着るともうTシャツでは走りたくなくなる。

こうして秋頃にはだいぶ自転車乗りっぽい風貌になってきた。そこでもう一つ大きな変化があった。

それはマウンテンバイクからロードバイクに乗り換えたこと。

これもおっちゃんメンバーの一人が乗らずに放置していたものを譲り受けた。こういうのには本当に恵まれていたと思う。ロードバイクのその軽い走りに感激しさらに自転車の乗るのが楽しくなった。

こうして、3〜4ヶ月経ってやっと「ロードバイクでトレーニングするパイロット」という今では当たり前な状況にまで辿り着くことになる。


一方でトレーニングはどうやっていたかだが、一応自転車雑誌などを見て「長い時間ゆっくり乗るのが基本」というのは知っていた。

しかし、長距離を走るロードレースではそれでよいと思うが、

当時の鳥人間コンテストの優勝記録は約2km、実際の飛行時間は5分ぐらい飛べば優勝が狙える距離である。

つまり高いパワーを短時間出す能力が求められるのでちょっと違うなと思った。それに通学練習が基本だから1時間以上のんびり乗る時間もない。

ということで、選んだ方法は「とにかく全力で頑張る」という根性論的なものだった(笑)通学コースもその方針を後押しした。


通学は大阪市内を縦断するコースだったので、朝の通勤時間はとにかく車と信号と違法駐停車が多い。
自転車は路肩を走れといわれるが、路肩は駐車車両が邪魔で走れない。自然と本線寄りを走ることになる。
そうなると車の流れに乗らないと危ないので嫌でも全力で走らざるをえない。

ということで、信号が変わるたびに全力で加速して車の流れに乗り、巡航状態にはいったと思ったら信号で停車、というのを繰り返すことなる。

当時は車が怖くて必死にやっていただけだったが、これは良いインターバルトレーニングになっていた。

トレーニングのもう一つの柱は活動拠点の工房に置いてある唯一のハイテクアイテムであったキャットアイ製のエアロバイクでのトレーニング

パワーと心拍数が測定できる夢のようなマシンだったが、当時は心拍トレーニングがやっと認知され始めた頃でパワートレーニングなんて影も形もなかった。なので、せっかく数字は出るもののそれをトレーニングにどう活用すればよいか全くわからなかった。


ただ、人力飛行機を飛ばすのに必要なパワーは280〜300W前後で、そのパワーを10〜20分も出せば優勝争いに加われることは予想できた。そうすると目標は自然と300W×20分に決まった。

この目標設定から振り返ると、当時から一応優勝するつもりはあったらしい(笑)

とはいえ始めた当初は200Wで10分できるかどうかというレベルで、いきなり300Wなんてとても無理。
大会まで時間もタップリあるので「精も根も尽き果てないぐらいのペースでやろう」と思い次のようなプログラムを考えた。

たとえば200W×10分間からスタートして翌日は11分、その翌日は13分と1分刻みで時間を増やしていき20分まで継続できるようになったら、次は230Wで10分からスタートして1分刻みで増やしていく・・・

キツさとしてはほぼ毎回全力を出さないとクリアできないぐらい。

でも初心者だったこともあり、この方法で当時は面白いように記録は伸びていった。

だた、エンジンの方は順調にパワーアップしていったがパイロットとしてのもう一つの重要な要素、操縦技術については春まで全くの手つかず。

当時は操縦の重要性が理解というか実感できてなくて「自転車にのるようなものだろう」ぐらいの感覚だった。実際にテストフライトが始まるとこの認識がいかに甘かったかを痛感することになる。

こちらの方はテストフライトの話でまた詳しく書こうと思う。 

後編につづく!



初めて参加した第18回鳥人間コンテスト


サポーターとして立候補してくれた友人達には「もちろん飛ぶから応援に来てね・・・TVに出れるかもしれへんし・・・」なんていわゆる典型的な集客コメントを振りまいていた。

もちろんこれらの効果はてきめんで、大学から応援バスのチャーターが必要なほど多くの友人や大学の近所の方々応援に来てくれたのだ。その辺りがさすが関西だと知らない人がいない人気番組?!お祭り好きの関西人にとっては、知り合いが出るというだけでのすさまじいインパクトである。

がしかし正直に白状すると大会前からまともなフライトができる可能性はないと思っていた。ただ心の中ではほんの僅かながらもしかしたら・・・奇跡がおこって少しは飛べるかも??という下心としての期待もあった。

ただ自分達としては、中尾は機体押し、そして津嶋は翼持ちとしてプラットフォームに上がることができただけでも一般視聴者からすると大変贅沢な経験ではあった。

ただ10mの高さから真っ逆さまに落下する機体を目の当たりにすると、何物にも代えがたいくやしさがこみ上げてきた。

それは結果にというより、こんな大舞台に来ているにもかかわらず、何もできていない・・・そしてやろうとしてもできない自分に対しての憤りだった。

そして100%当事者でないと、いくらお祭りであっても全く楽しめないという自分の性格を改めて再認識した。

やっぱり本気じゃないと全然楽しくない・・・。当然の結果だとはいえ、プラットフォームを意気消沈してトボトボ下りながら、例年は必ず良い機体を持ってきてやる・・・なんて大会前には全く考えられないぐらいの熱い思いがこみ上げてきていた。


琵琶湖には・・・あのプラットフォームには、一度上がると誰もが引き込まれてしまう魔力があったのである。

PF1995.jpg


これがいわゆる大舞台が人の心を揺さぶるというエモーショナルな魔力である。


この1年目のプラットフォームでのできごとがあったからこそ、
学生生活すべてをこの鳥人間に掛けてもいいという気持ちが決まった。


といっても過言ではない。単なるノリだけではその後の

というまで第一回大会終了時までの補足も含めた振り返り・・・。


そして大会終了後の今後どうするか学生メンバーそれぞれの思いを共有することになった。みんなもちろん鳥人間は好きだ・・・だからこそここにいる。でも学生生活すべてをコミットできるか??と問われると他のサークル活動、恋愛、バイトなどなど楽しそうな誘惑が一杯の中、簡単に決められるものではない。しかも


おっちゃん達は本気でやることを約束しないかぎり支援してくれそうにない


これはメンバーで合意していたかどうかは忘れてたが、いくつかのポリシーをおっちゃん達にコミットすることになった。

 ・ボチャンはしない
  (初出場の時やってしまった離陸後即墜落はしない・・・
   つまり、航空宇宙工学科の恥さらしはしないということ。
   残念ながらこの段階ではまさか優勝を目標にすべきだなんて夢にも思っていなかった)

 ・留年しない
  (留年したら即退部)


これは裏返せば、入学時に大学教授に言われた鳥人間コンテスト出場を勧めない理由そのものである。今思うとおっちゃん達もこの辺りは大学と自分達のことも考えてくれた上での決めごとにしてくれたんだと思う。ただ、この手のコミットは今後毎年増えていくことになるのだが・・・。


そんな中で大会に初出場を手伝っていた6名のメンバーの中で、本気でやろうと決めたメンバーは結局3名。後はサポーターとして間接的な支援をしてくれることになった。

個人的にはもう一人どうしても口説きたい仲間がおり、熱烈アプローチをしたが、こういうのは片思いでは成立しない。こういうのはいわゆる恋愛と同じである。口説いてどうにかなるものでもないというのも改めて感じた苦い経験でもあった。


チームの名前は"風車の会"をそのまま英語にし大学名を加えた


"大阪府立大学WindMill Club"


当時大学名でエントリーすることは大学側から認めれていなかった。しかし、いつか"大阪府立大学"という名前を自信を持ってテレビに出したい・・・自分としてはそれに非常にこだわっていた。このように無条件で母校を愛してしまうのも日本人ならではの忠誠心だったのかもしれない。 そしてそれはその2年後、大会新記録で総合優勝という結果を残した後に初めて実現することになる。


WindMill ClubのMが大文字なのがチーム名としての重要なポイントであるが、これはデザイン上のバランスといいつつ、WCだとトイレになるので、略語をWMCとするためもものである(笑)

機体のコンセプトとしてはとりあえず確実かつ無難に飛ぶこと・・・人力プロペラ機としては定番のレイアウト(トラクタータイプ)機体サイズでいくことを決定

そしてパイロットは元水泳部の「中尾 誠」・・・この能力は未定?!


こうして我々の2年目のチャレンジがスタートすることになる。


 

鳥人間コンテストは今年でなんと39回目の大会を向かえる。これほどの長寿番組になるには、運営する側にも参加する側にも共に何か世代を魅力があるに違いない。そしてその魅力は・・・大会会場に来てみないと味わえない非日常なのである。

「びっくり日本新記録」というタイトルでスタートした初期の大会をご存じの方は、欽ちゃん仮装大賞ばりのコミックエントリー部門の無謀なダイブに爆笑していた印象が強いかもしれないが、この部門は10回大会から姿を消し、その後はメーカーのベテランエンジニアによる企業常連チームを中心として結構ストイックに?!記録を競う本気の大会にシフトしていった。

そして自分達が初出場した1994年の18回大会も人力プロペラ機部門ができて9回目になり、トップチームによって毎年飛行距離が更新され・・・大会当初からの夢であった琵琶湖を横断が実現が期待されるなど、まさに番組的にも参加者的にもエキサイティングな時期であった。

HornetDrawing.gif
初出場機体:Hornet lの図面


では初出場の堺・風車の会に話を戻すと・・・その後何度もテストフライトを重ねてはきたが、残念ながらこのエキサイティングな上位チームの争いにからめる可能性は全く期待できなさそうな状況で、大会10日前のミーティングを向かえていた。


 中野さん(&おっちゃん達):「これは飛ばんぞ・・・」

 中尾:「パワーは足らなさそうですが、
     実績のある機体だからプラットフォームからちゃんと押し出せば
     滑空ぐらいはできるんちゃいます?」

 深田さん:「まぁ、うまくテイクオフができれば・・・(苦笑い)・・・がんばりましょう!」

 津嶋:「・・・無言(フライトに対しては直感的に悲観的・・・
     でも大会に行くのは楽しそう(笑))」


人力飛行機の師匠の深田さんは機体づくりやテストフライトでは厳しい中でもいつも前向きだった。

どちらにしてもメンバーみんな大会は楽しみにしていたのは間違いない。鳥コンは全国ネットのテレビ番組でもあり、それを生で見れるというだけでワクワクしないわけはない。


その後恒例になるが、大会には場所取りとしての先発隊(実質は先行現地入りのくつろぎ部隊?!)と最後までトラックに荷造りをする後発隊の二手に分かれて大会会場に向かった。

IMG_20151030_0060.jpg

テレビでしか見たことのないプラットフォームは想像以上に高く大きい・・・それは生で見るだけでも興奮するものである。

もう時効だから問題ないと思うが、当時はプラットフォームには警備員もおらず、大会の前後の夜にコッソリ進入してダイブ可能であった(笑)まぁ暗闇の中での10mのプラットフォームから見下ろす琵琶湖の様子は、高所恐怖症でなくても足がすくむ怖さがあったが・・・馬鹿な学生連中がやることは全国津々浦々どこも同じである。

IMG_6616.jpg

大会前日は、審査員による機体の最終チェックが行われることがあり、大会会場の浜辺に一面に全国からの手作り飛行機が集まる祭典になる。多くのチームは現地最後の仕上げをしており、現在のように気軽に情報交換や交流ができない当時は、他チーム機体を偵察?!したり、チーム同士にとっては貴重な交流の場であった。そういう意味でも前日の夜には、各チームの有志が集まっての交流会なども開催されたりしていた。

「この中に自分も加わるのかぁ」 そう思うとやっぱりテンションが上がる。 自分たちの駐機エリア設営が完了すると、さっそく他の機体を見回りにいくことに。 他のチームの機体を見るのは本当に面白かった。


IMG_20151030_0054.jpg
垂直尾翼の調整中の中尾、津嶋と栗野さん

実際に自分も作ったからこそわかると思うのだが 、

 「あ、ここはこうやって作ってるんだ」

 「これは次の機体には使えるかも」

というところがたくさんあってメチャクチャ勉強になった。と同時に

 「これ、まだ全然できてないけどホントの飛ぶの?」

という機体もチラホラ。

 「こういうチームがボシャン(いわゆる真っ逆さまな墜落)となるところだな」

なんて上から目線(笑)で思ったりしていた。やはり優勝候補やパッと見て機体がきれいにできているチームは、辺で作業していない。 飛ぶところは事前に準備ができているということだろう。

今思うと機体を見れるのは今日しかない・・・という思いで集中して他のチームを観察していたからこそ、実は人力飛行機について一年で最もインスピレーションをもらう時間でもあった。


前日夕方はチームでの前夜祭で盛り上がった後、当時は参加者を招いての開会式が開催されていた。大会を彩る芸能人のパフォーマンスや過去のハイライト映像などが披露され、参加者にとっては気持ちをもり立てる非常に貴重なイベントになっていた。残念ながらこのところ10年はこの開会式は中止になってしまったのは非常に残念である。

IMG_20151030_0043.jpg
前夜祭の様子(左端に切れてるのが津嶋)

そしてついに僕らとって初めての鳥人間コンテストは大会当日を向かえることとなる。

ちなみに学生は宿なしの浜辺でのブルーシートやテントでの野宿・・・先発隊は最低三泊四日、長くて四泊五日の間、琵琶湖の湖岸で過ごすこととなる。当時は非常に楽しかった思い出しかないが、おじさんになった今は全くそそられない(笑)

そして大会当日。 鳥人間の朝は早い。 まだ薄暗い4時ごろには起き出して準備を始める。 機体の組み立て、最終チェックに直前ミーティングとやることは盛りだくさん。 テキパキと作業を進めていく。

IMG_20151030_0048.jpg
最終調整中の津嶋と中尾

そして何より大会への出場が如何に多くの方々の支えの上で成り立っているかを目の当たりにする・・・そう大会当日は1年の応援してくれた協力者の方々集結する唯一の日であもある。機体を組み立てる真剣で緊迫した空気と協力者の方々の期待が混じり合う・・・その雰囲気は当事者としてしか感じることができない1年の集大成が凝縮された最大のお祭りである。

その協力者の方々への最大の気配りとチーム運営を同時にこなすおっちゃんの姿は、さすがとしか言いようがなかった。


IMG_20151030_0041.jpg
メンバーと協力者の方々全員集合で記念撮影の準備

鳥人間というと青空の下で機体が飛ぶというイメージが強かったが、この日は天気が悪かった。 なんと小雨がぱらつくコンディション。 雨が降ると翼の表面に水滴がつくが、実はこれが翼の空力性能を極端に悪くしてしまう。 僅かなパワーで飛行する人力飛行機の場合、致命的なパワーロスにもなりかねない。

雨が降っているあいだは翼の下で雨宿りして、止んだらウェス(いわゆる雑巾布?!)で翼を拭くという作業をくり返す。20m以上ある翼を全部拭くのは大変だがここは手を抜くわけにはいかない。

プラットフォームに登ると場所の関係で翼を拭けなくなってしまうが、幸いにも我々のチームがプラットフォーム登るときには雨は上がっていた。
 
そうこうしている間にウチのチームがプラットフォームに上がる順番がきた。 いよいよ初プラットフォーム。 プラットフォームに続く桟橋を渡っているといやが上にもテンションは上がってくる。

「うわ、高い!」 プラットフォームに到着するとまず最初にそう思った。下から見るとそれほどでもないが、上に登るとその高さに驚く。

だが、 「ここから飛ぶのかぁ」 と感慨にふける暇はなくフライトの準備。やることは沢山ある。 が、インタビューを受けているパイロットの背後をわざわざ通ってテレビに映ろうとする余裕はあった(笑)
 
プラットフォーム上での中尾の役割はテストフライトと同じく機体を押すこと。 飛び立つ機体を真後ろから見ることができるので特等席だ。 津嶋の役目は左翼の支持。左右のバランスもテイクオフには非常に重要になる。全ての準備が整いパイロットが機体に乗り込む。
 
あとは審判長の赤旗が白旗に変わるのを待つのみ。 当時の風のコンディションは少し背風(追い風)で離陸には非常に不利な条件だったと思う。 この条件ではプラットフォームから出た直後は揚力が足らず機体は急降下してしまう。 そのためすぐに機種を上げるように操縦する必要があるのだが、 ・機首を上げすぎると失速して墜落 ・機首上げが不十分だったりタイミングが遅いとそのまま湖面に刺さる ということで非常にシビアな操縦を要求される。

だから離陸に失敗しているチームも多かった。 そして、もちろん我がチームのパイロットはそんな訓練は全くしていない(苦笑) そう、うまく離陸できたとしたらそれは奇跡ともいえるようなコンディションだった。
 

果たして奇跡は起こるのか?

 
いよいよ審判長の旗が白旗に変わる。 パイロットがカウントダウンを開始。プロペラの回転数も上がっていく。   


 「さん、に、いち、スタート!」 


緩やかな傾斜のついた滑走路を機体が進み出す。滑走路は短いのでせいぜい5,6歩ぐらいしか押せないがその数歩に全力をかける。

機体がプラットフォームから飛びだすと、高度が一気に下がっていく。 このままだとヤバイ。

そこで間髪入れず深田さんが 「アップ!!」 と大声で叫ぶ。 それが聞こえたのかパイロットが機首上げの操舵をする。 そうすると機首が上がる、いや上がり過ぎだ! 右翼が失速して機体が急激に右に傾く。
 
そして右翼の先端が湖面に接触、というよりも湖面に刺さったような状態になり急旋回して墜落。 その間、僅か数秒。 体感的にはもっと長く感じられたが、実際は「あ〜〜」 と叫んでいる間に終わってしまった。

パイロットは無事のようだったが、プラットフォーム上からバラバラになった機体を見るのは何とも言えない気持ちだった。


ただいまの堺・風車の会の記録は・・・"51.26m"

 
うなだれている自分達に追い打ちを掛けるような、アナウンスが流れる・・・。
(余談だが、この小数点以下の数字まで読み上げる響きが実は記録アナウンスを非常に味わい深くしている・・・)

一応計測不能にはならなかったが飛んだとは言えない。 まさかのボシャンだった。

意気消沈してトボトボとプラットフォームから降りていくとさらに悔しさがこみ上げてくる。


 中尾:「自分が乗ってればもうちょっと何とかできたんじゃないか?」 

    「来年は笑顔でプラットフォームを降りていきたい」

 津嶋:「やっぱり奇跡なんてなかった・・・これはある意味分かっていたこと。」

    「単なるテレビ番組であっても、勝負は勝たないと面白くもなんともない
     ・・・やるなら勝ちたい」 


 おっちゃん達も「まぁしゃあないな・・・」という表情ではあったが、
この時ばかりは心なしか沈んでいるように思えた。

ただ、

僕らの心の中にはこの時本気スイッチが入っていた・・・

片付けを終え家路についたころにはもう来年の機体を考えていた


そんな思いを募らせながら、初めての鳥人間コンテストは終わっていった。


IMG_20151030_0046.jpg
初代堺風車の会のコアメンバー@テレビ放映会にて


そうして僕らの青春のスタートとなる大阪府立大学WindMill Clubの設立と本当の意味でのチャレンジがスタートすることとなる。

ようやく次回から本編スタートです(笑)・・・乞うご期待 



鳥人間コンテストの番組を知っている方でもこの"テストフライト"を想像できている方は少ないのではないだろうか。

毎年プラットフォームから、翼が真っ二つに折れたり、バラバラになりながら墜落するシーンが印象的なことからも、ぶっつけ本番で飛ばしているんじゃないかと想像している方が殆どではないだろうか?

しかし、実際上位チームは広場や早朝の空港を活用して数十本のテストフライトを経て大会に望んでいる。プラットフォームからの離陸は一か八かのギャンブルではなく、このテストフライトを通した調整の賜なのである。

ずばり、
"テストフライトを通した調整および改良"

が設計同様に・・・いや素人集団にとってはむしろ設計以上に重要なのである。

・・・と格好良く書くとさもロジカルで計画的なテストをこなしているように思われるが、何も知らない我々のテストフライトはもちろん散々なものであった。

テストフライトは朝凪と言われる風の少ない早朝に行われる

人の全力疾走程度・・・いわゆる飛行機のイメージとしては激遅(設計速度は6.0〜8.0m/s程度・・・風速予報と比べてもらえれば分かるが、日常的に風が強いと感じる日だと全く進まない程度)の人力飛行機はそもそも無風が最も適している。

IMG_20151030_0026.jpg

恐らく実物を見て最も驚くのがその大きさ。翼幅が20〜30m(約100名乗車のボーイング737の翼幅が30m)ある機体は運搬、保管用に通常バラバラに分解できる構造になっている。

慣れれば30分程度で組み立て可能になるが、手際の悪い初心者チームはキャーキャー言いながら1時間は掛かる。そのためテストフライト日は外は真っ暗な早朝3時〜4時に集合し搬送、組み立て眠い目をこすりながらの作業が始まる。


深田さんの機体をお借りして女性向けに再設計した、我々の初号機Hornet L (LはLadyのL)の初フライトは、大阪府立大学のグランドで行われた。

当時の活動場所は大学から6km程度離れたところにある、おっちゃん中野さんの会社の倉庫の片隅を借りて活動していたこともあり、おっちゃんメンバーの一人の運送会社の4tトラックを活用して運んでいた。実はこの機体の積み降ろしも慣れるまで結構大変・・・(先々自分がレーシングカー業界に就職した後も毎回レースに向けたこの積み降ろしは大変だった(笑))

では念願の初フライトの模様を未来のパイロットである中尾視点でお伝えしよう!

前日に搬送のためにトラックに機体を積み込む時は、
 
「人力飛行機が飛べる姿を初めて目の前で見れるんだ!」
 
とワクワクした気持ちだった。
 
この時点ではそもそも昨年準優勝した機体だしアドバイザーの深田さんもついてるんだから飛ばない理由はないだろうと思っていた。ドキドキの初テストフライトの日の天候は晴れ。風もなく申し分ないコンディションだった。
 
屋外での機体の組み立てには少々手間取ったが、初めて完全に組み上がった機体を見るとその大きさにちょっと感動。
 
「おおきい!これが飛ぶのかあ〜」
 
とどんどんとテンションが上がってくる。
 
人力飛行機のテストフライトでは、パイロット以外に左右の主翼を支える翼持ちと離陸まで機体を加速させる機体押しという人員が必要となる。フォーメーション的には、高校時代もバリバリ体育会系の中尾と中野さんは機体押し、津嶋は右の翼持ちという役割分担。
 
IMG_20151030_0001.jpg

パイロットの女性が機体に乗り込み、まずはテスト滑走。小さい2輪の車輪の機体を土のグラウンドを押すと思ったより重い。
 
でもそれに負けずにグイグイと加速すると主翼が風を受け上にしなりはじめる。
 
「おお、飛びそう」
 
このまま飛ばしたい気分だったがとりあえず1本目はこれで終了。特に機体に問題はなさそうだったので、次はいよいよ本番。
 
再び機体は加速していく。速度が十分に上がってきたところで深田さんが、
 
「アップ!」
 
と叫ぶ。"アップ"とはパイロットが水平尾翼を操作して機首上げし機体を離陸姿勢にすること。
 
そうすると機体がブワッと浮き上がった。
離陸すると地面からの震動がなくなるのですぐにわかる。
 
「浮いた!」
 
と誰かが叫ぶ。みんな走りながら
 
「おお、飛んだ!スゴイ!スゴイ!」
 
と大興奮。
 
IMG_20151030_0030.jpg

そして着陸。
 
実際には滞空時間はほんの数秒で「飛んだ」というよりは「跳んだ」という感じだった。
 
しかし、その時はもっと長い時間飛んでいるように感じた。それほど地面から離れたことが感動的だったのだろう。
 
フライトの後も
 
「おお!ちゃんと浮くやん!」
 
とみんな大喜びだったと思う。
 
ただ、何度か繰り返していくうちに徐々にその感動は薄れ
 
「あれ??」
 
と思うようになる。
 
まったく飛距離が伸びなかったからだ。
 
何度やっても浮いてはすぐに着陸の繰り返し。まともなフライトができない。
 
原因はプロペラの推力不足
 
プロペラの推進力ではなく機体押しのパワーで進んでいるので、離陸して機体押しが抜けると速度を維持できず着陸してしまう。

パイロットのパワーかプロペラがダメかのどちらかだ。今回のプロペラは実績があるものを使っているのでパイロットのパワー不足という可能性が濃厚だった。
 
今ならこのように原因はすぐにわかるが当時はこんなこと考えも及ばない。
何が悪いかわからないままに、「今度こそ、今度こそ!」と機体を押し続けたのでさすがにみんな疲れてきた。そんな時に着陸時に前輪が破損したことでテストフライトは終了。
 
ただ大空に羽ばたくようなイメージと若干違う飛びっぷりに少しモヤモヤはあった。
しかし、とにかく機体が浮くことを確認できたので、初フライトやしこんなもんやろ・・・とその日は一応の充実感を持ってテストフライトを終えることができた。
 
とほっと安堵していた我々対してに深田さんはずばっと、

 「今日は飛んだとはいえませんね・・・」
 
 「単なるジャンプです」

 「いわゆる凧揚げと同じです」

という厳しい指摘を受けることになった。
確かに写真を見るとまるで翼持ちが凧を揚げているかのようにみえる。これでは飛行機のフライトとは言えない。
 
こうして実際に飛ばしてみて人の力で飛ぶことの大変さが徐々に実感できるようになってきた。
 
その後も大会まで週末の早朝に学生とおっちゃん合わせて十名程度が何度も集まってテストフライトをくり返すが結果は毎回同じ。

大会を目前に控えメンバーの雰囲気もだんだんと

「これで本番に飛べるのか?」

という感じになってくる。
 
中尾も最初の頃は典型的な工学部生の期待として(?)「機体がよければ誰が乗ってもある程度は何とかなる」と道具の比重が大きいイメージをもっていたが、現実を見るとパイロットも同じぐらい重要な要素だと思い始めるようになった。確かにどんな乗り物でもエンジンはキモとなる部分だ。人力飛行機はそこが人間である。そこがパワー不足ではどうにもならない。
 
ただ当時のパイロットの女性を責めることはできない。パイロットに必要な体力レベルやどんなトレーニングが必要かといったことをまったく考慮せず、テレビ的な"話題性"だけで決めたのだから・・・。 

とはいえ津嶋もそのトレーニングの様子を横目で見ながら、

これじゃぁアカンやろって・・・

自分がパイロットやったら死ぬ気でやるけどと正直思っていた・・・と同時に中尾も、

「もし僕が代わりに乗ればもうちょっといけるのでは・・・」

という思いが強くなってきていたのは確かだった。このときのモヤモヤした気持ちも後のパイロットへのモチベーションに繋がっていった。

こんな満足なフライトができないまま、我々、堺・風車の会は初めての鳥人間コンテストを向かえることになる。 

初めての鳥人間会場でみたものは・・・乞うご期待




"共感"

・・・何に取りかかるにも本気になるためにはこれが何よりも重要だと思っている。

おっちゃん達が活動を開始していた"堺・風車の会"は確かに人力飛行機をつくろうとしていたが、津嶋の直観としては何か物足りないものを感じていた。大学生活をすべてかけてここに全力投球するには何かが足らないと思った。これが実はおっちゃん達との初対面の儀式の時に"やります"と腹の底から答えられなかった最大の原因でもあった・・・。

しかし堺・風車の会は、


  ・大阪堺市の産官学連携チーム
  ・人力飛行機では珍しい女性パイロット


という2点をキャッチコピーとして、実績のない初出場チームにとって最大の関門である書類審査を突破していた。こういう審査にとって初出場チームにとって重要なのは、今も昔も変わらず


"話題性"


である。当時の司会者は桂三枝(現:六代桂文枝)であり、大阪ど真ん中の読売テレビ主催の番組が、単に本気で飛ぶ飛行機を持むだけでは歓迎されるわけではない。

そうした中、特に女性パイロットというのは、当時も(今も)珍しく非常に話題性のあるネタであることは間違いなかった。ただ多少体重が軽い分有利になるとは言え、機体全体の重量とすれば10%程度の軽量化にすぎず、実際飛行するのに200W前後の高いパワーを出せる体力を身につけるには相当な高負荷トレーニングが必要になる。女性パイロットが、少ないなりの理由ははっきりしていた。

今思い出しても当時の自分にも一つだけ、他人に比べて感度の高いセンサーがあったと思う。小学校時代に剣道で全国優勝を実現するプロセスを通して、図らずして身につけていた"勝負に対する勝ち筋観"である。


競技に出るなら勝ちたい
・・・この時も本能的にそういう目でチームを見ていた。


つまり、当時も勝負にこだわっていた自分にとって、かっこ良く言うと


"大学生活をかけて全力を尽くせば優勝を目指せる"
・・・その可能性を感じなかった。


素直に言い換えると


ミーハーにテニスサークルに入って、
女の子と楽しい大学生活を越える
力を感じなかった


というのが津嶋の第一印象であった(笑)

しかし、この印象は後々初めての鳥人間コンテストを経験することで大きく変わることになる・・・。

しかし、初めからそんな贅沢も言ってられない。鳥コンにでるためにはその他の選択肢は無いわけだから、腹はまだ決まらないかもしれないけど、


おもしろそうだからとりあえずやってみるか・・・
始めるきっかけなんてその程度のノリである。


チームの実態に戻ると、実際自分達だけでなく、中小企業のおっちゃんも人力飛行にとってはど素人。思いのあるメンバーが集まっただけで飛ぶ飛行機が作れるほど世の中そんなに甘くない?という中、おっちゃんらしい初対面での


「鳥人間にでたいんやけど、飛行機貸してくれんか?」


という直球アプローチで支援者としてまきこんでいたのが、自分達にとって人力飛行機の師匠となる深田さん(仮称)であった。

深田さんは職業的な飛行機のプロという訳でなく、関西の某鉄道系デパートに勤務しながら独力で自宅の倉庫で人力飛行機を製作し何度も大会に出場していた知る人ぞ知る、いわゆる"人力飛行機オタク"である。


制約の多い環境でゼロからやってきたからこその職人的な厳しさとこだわり
そして一人ですべてを把握しているからこそできる全体観のある指導


は今思うと指導者としては最高の方だったことは間違いない。しかし、当時の自分達にはその指示の恐らく半分も理解することはできず、なんかつっこまれてばかりの毎日・・・。当時、如何に素人だったかという中尾のエピソードを紹介しよう。


IMG_20151030_0008.jpg
当時の深田さんと津嶋と中尾(左から)・・・(^^ゞ


我々が加わった5月に対して大会まではもう2ヶ月程度しか残っていなかったが、完成度は主翼は8割程度、尾翼は影も形もなかった。人手不足で作業は遅れており、このままでは大会までに完成するかどうかも危うい状況だった。

とりあえず当面の目標は、1週間後に大仙公園で催されるイベントで機体展示するので尾翼を作ること。尾翼が無いと展示してもカッコがつかないということらしい。

もちろん飛行機なんて作ったことがないのでおっちゃん代表の中野さん素朴に質問をしてみた。


 中尾:「尾翼って1週間ぐらいでできるんですか?」

 中野:「そんなもんやったことないワシに聞くんか?聞く相手まちがっとるやろ?おまえはやれるんか?」

 中尾:「え?あ、いや・・・分かりませんがたぶん・・・」

 中野:「そうか、じゃぁ頑張れ」

 中尾:「え?あ、はい、頑張ります」


こちらが質問したつもりがいつの間にか「やります宣言」になってしまい、1週間毎日終電ギリギリまで尾翼作りに精を出すことになった。

何でもやれば出来るもので、1週間で尾翼は完成!無事に展示には間に合った。そう、展示には・・・

やはりシロウトの突貫工事。
完成した尾翼はなんとリブをつける順番を間違えて設計とは違う形に。

第4話図(金魚尾翼).png

普通に図面を見ればこんなミスするはずがないと思うのだが、チェックする人が居ないとこんなものなのかもしれない。大会を2ヶ月前に控えているにも拘わらず、如何に我々がど素人だということが分かっていただけると思う。

この尾翼は金魚のしっぽみたいということでメンバーからは金魚尾翼と呼ばれテストフライトにも使われたが、本番を前に作り直しとなった。こうして中尾が手がけた初作品は大失敗になってしまったが、期限内で完成できたことだけは大きな自信になった。

こうしたギリギリの期限に追いかけられる中での


マニュアルのない試行錯誤の積み重ね


が、実は自分達にとってこの上ない最短時間での人力飛行機学習に繋がっていった。

 

関東の方は同じに思えるかも知れないが、岡山と大阪の文化圏、言語圏は全く異なる。岡山県民は関西人ほどのノリもなくむしろ排他的。言葉のイントネーションにはあまり抑揚が無くむしろ関東に近い。そういう自分にとって大阪の初対面からフレンドリーで、とにかく何か話をするときには常に"ぼけ"なければ場に入っていけないように感じる文化はかなり新鮮だった。

ただ個人的にはこの関西文化と出会えたことが、"津嶋くんはハードボイルド?!"というレッテルを貼られて、渋めなキャラ?!を演じてた中高時代に押さえていた本当のキャラを徐々にデビューさせていくことになる(笑)


話を本題に戻すとおっちゃん達は、そういう大阪の中でも岸和田の"だんじり祭り"でも有名な河内エリアに近い、堺市の中小企業の経営者と商工会議所の面々。そしてそのおっちゃんの中での中心人物である、中野さん(仮称)は見た目はゴルゴ13ばりの眼球するどい目つきと眉毛の濃さ・・・さらに加えてドスの効いた低い声。

これからの活動拠点になる運送会社の倉庫を学生数名で初めて訪れた時も、毎年新人への恒例となる儀式の洗礼をあびることになった。

学生:「こんにちは〜、初めまして今日は見学させてください」

という挨拶に対して初対面など関係なく、いきなり突っ込みが山のように帰ってくる。

中野:「おまえは誰や?まず名を名乗れ」
津嶋:「津嶋です」
中野:「ここに何しにきたんや?」
津嶋:「え・・・今日は飛行機製作を見学させていただこうかと・・・」
中野:「そんなんわかっとるわ。おまえは何がやりたいんか?ときいとるんや」
津嶋:「鳥コンに出たいと思ってまして・・・」

中野:「それは本気なんか?どこまで本気かここで見せてみろ」
津嶋:「本気さを見せる?・・・ですか??」「え〜っと・・・」

中野:「ちゃんと見せられんのか?おまえ見とったら全然本気さが伝わってこんわ。そんなやつはいらんわ」
中野:「それからおまえなにへらへらしとるんや、冗談は顔だけにしろよ」
津嶋:「・・・」

 <静かな時間が経過>

中野:「おまえ今日は手伝いにきたんとちゃうんか?そんなところでボーッとつったっとらんとこっち来てこれもっとけ」
津嶋:「あ・・・はい」

という支離滅裂?!にも思えるコミュニケーション。

実はこれから様々な場面で何度も繰り返されるこれらのつっこみは、

"自分自身の本心と向き合うきっかけとなる問い"

になっていった。

繰り返し自分の心と向き合う事で、津嶋自身も自分の強さと弱さを知り自分の思いと力を解放できるようになっていくことになる。 

つづく・・・


今回のお話に登場するもう一人がパイロットだった中尾。


生い立ちをすこし書いておくと、生まれは大阪市内、町工場の4人兄弟の末っ子に産まれる。末っ子だったためか、勉強や進路について親からあれこれと言われることはほとんどなく、自由気ままに過ごさせてもらった。

生の時は体育が全くできず、自転車には小学3年生まで乗れなかったし逆上がりもダメ、腕相撲でも女子に負けるぐらい。 読書と図工が大好きな典型的なインドア派の小学生だった。

幸いにも小学校の担任は図工に力を入れている先生ばかりで特に絵はいろいろと指導していただき、市長賞をとったり小学校の創立100周年記念誌の表紙を書いたりと、図工好きとしては楽しい経験を積ませてもらえた。このあたりの経験が創造性をはぐくんでくれたんじゃないかと思う。


中・高になると何故か運動に目覚め、図工からは遠ざかり陸上部や水泳部という体育会クラブでの活動にどっぷり漬かった生活に。特に水泳部は厳しかったがメンタル的にも肉体的にも鍛えられた。これが後のパイロットにも生かされているのだろう。


nako swim.jpg


とはいえ、当時は鳥人間コンテストのことなど全く頭になく、乗り物や機械全般は大好きだったが何が何でも飛行機というほどの飛行機好きでもなかった。


だから大学も機械系ならどこでもよかったが、たまたま大阪府立大学の航空宇宙工学科が推薦入試をしていたのを発見。「年内に決まったらラッキー」という乗りで受験したら合格してしまった。

こんな感じだから合格時点では鳥人間コンテストどころか「飛行機飛ばしたい」なんてことも全く頭になかった。


そんな僕に鳥人間コンテストを思い出させてくれたのは同じ水泳部の友人の一言だった。 確か卒業式のあとに喫茶店でみんなで喋っていたときのこと。


「中尾、航空宇宙工学科に行くんやったら鳥人間コンテストに出てくれよ。おまえがパイロットになって『飛びま〜す』とか言ってテレビに出てたらおもろいんやんけ」

 

と冗談まじりに言ってきた。 その時は


「確かにおもろそうやけど航空宇宙工学科ってそういう活動するところとちゃうと思うで・・・」


否定的に答えたが、直感的に「これは面白そうなネタだな、楽しめそう」と感じた。高い志も憧れもないが、このときの「面白そう、楽しめそう」という感情が原動力となって以降の行動を支えていたように思う。


こんな思いを持って学生生活はスタートし、前回の話のように多少凹むこともあったりしたがトントン拍子に話は進んで5月には実際に飛行機作りをしているチームと出会えるチャンスが回ってきた。


この時は、あんなに変わったおっちゃん達と出会うとは思ってもみなかった。