在宅で仕事をしている期間は、子供たちも在宅している期間だった。
大学でオンラインが始まり、私と帯域の奪い合いを感じることもあるが、大学生の娘との時間は明らかに増えた。
朝から晩までオンライン授業を受けている娘に先日聞いてみた。
「大学での授業を10点、まったく授業もなく家にいる時間を0点だとすると、オンライン授業は何点?」とオンライン授業の感想を聞いてみたのだ。というのも、かれこれ4カ月以上も遠隔でしかミーティングや、ワークショップができなかった中で、率直な感想はどうなのか気になっているからだ。おまけに、大学で授業をする機会があったばかりで、学生たちの感想がどのようなものなのか、知りたかった。
少し考え込むかと思いきや、「それは授業によるよ」と即返答が返ってきた。「例えば、プログラミングの授業はマイナス2!」
「だって、課題を言われても、その場で誰にも聞けないから」
同じ時期に、大学生に「起業について」「イノベーション概論」「起業家精神」についての授業も行った。毎年行っている授業だが、今年は自宅から“放送”した。
これが、いつもの講義室での授業とは丸っきり違う感覚だった。もちろん、遠隔授業に適した内容にかなり修正を施したつもりだ。遠隔という制約があると、教室で学生と「一緒に考える」などといった結論が曖昧なことは避け、はっきりと一方通行で伝えられる内容に絞った講義を行ったのだ。そうすることで、いつもの1.5倍位の分量を講義ができた。しかも、理解度も評判も概ね良かった。こちらは大量の知識を放出することができたし、理解度も高く、評判が良いので、今後も益々オンラインでの授業は増えることになると思う。
しかし、知識を授けることが教育の目的ではない。教科書の内容を理解してもらうことが授業や先生の役割ではない。その知識の活用が大切である。このことを忘れてはいけない。
娘のプログラミングの例を挙げれば、C言語の構文を理解しても無駄で、“Hello World!” 以上の何かを作り出してもらわないと困る。そのために、教える側は複数の努力を行っているものだ。授業では、1.聞いてもらう 2.わかりやすくする 3.使ってみさせる などの工夫がされているが、要するに「授業に対する興味」を持たせているのだ。このような授業への意欲を高めることは比較的工夫がされているものの、学習には知識の習得と訓練の二つの側面があることを私たちは忘れがちだ。
知識の習得は、かなり効率化できる。オンライン学習は最たる例で、多くの分量が理解しやすくなっている。また、教える側の「授業に対する興味」の持たせ方も数十年前と比べると大きく進んでいる。双方向なやり取りや、グループワークで盛り上がるようなものも著しく増えていて、 黒板に向かってばかりの先生は絶滅危惧種と言っていいだろう。
しかし「訓練」はそう簡単に効率化できない。面白くてわかりやすい授業をやったところで、学生がコードを1行も書かなければ、やっぱり1行も書けない人のままなのだ。逆に分かっていないまま「写経」することでいつの間にかコーディングできるようになった、という人も少なくない。
あの一見頭でっかちなアリストレスも言っていた「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」。Practiceという言葉は、練習という意味も持つが、実践という意味を持つのは本当に示唆深い。