「書く人」も「読む人」もAIになった先にの画像

最近、文章を書く機会があると、生成AIを使うことが増えました。

例えば、頭の中にあることを箇条書きで5つくらいAIに渡して、「これを報告書っぽくまとめて」とお願いします。すると数秒後には、背景や示唆、今後の展望などが加わり、2,000字くらいの立派な文章ができあがります。

便利です。とても便利です。一方、その2,000字を受け取った側はどうするでしょうか。

「長いな。要点だけ教えて」
と、今度は読む側がAIに放り込みます。そして返ってくるのは、5つくらいの箇条書きです。

5行 → 2,000字 → 5行。

……だったら、最初の5行をそのまま渡せばよかったのではないでしょうか。 そんな、少し不思議なことが、世の中のあちこちで起き始めているように思います。

書くコストが下がったら、読むコストが上がった

生成AI以前、2,000字の文章を書くのはそれなりに大変でしたよね。何を伝えるか考え、順番を考え、言葉を選び、書いては消します。その過程で、「そもそも、これは2,000字も使って伝えるほどのことなのか」というフィルターも、無意識のうちに働いていたはずです。

生成AIによって、その制約がほとんどなくなりました。メールも、報告書も、企画書も、履歴書も、ブログも、いくらでも作れます。文章を作るコストが下がった結果、世の中に流通する文章の量は増えていきます。

しかし、人間が読むために使える時間は増えていません。

当然、今度は読む側もAIを使います。
「この報告書を3行で」
「このメール、結局何をお願いされている?」
「この応募者の経歴を要約して」

そうすると、人間Aから人間Bに何かを伝えるために、

人間A → AI → 長い文章 → AI → 人間B

という、妙な情報伝達経路ができあがります。
真ん中の大量の文章は、いったい誰のために存在しているのでしょうか。

文章は、人間が読むためのものではなくなる?

例えば、私がAIに「このテーマについて調べて」と頼んだとします。
AIがネット上の記事を100本調べ、重要な論点を整理して、私に5行で報告してくれます。私は元の記事を一本も読みません。

そして、その100本の記事の多くも、誰かがAIを使って作ったものだったとしたらどうでしょう。
AIが書き、AIが読み、AIが要約し、人間は最後の数行だけを読みます。
ここまで来ると、SF的な違和感があります。

AI同士が情報をやり取りするのであれば、そもそも「背景」「課題」「結論」「今後の展望」などと、人間が読みやすい2,000字の文章に整える必要すらありません。箇条書きでも、構造化されたデータでも、AI同士が扱いやすい形式で渡した方が効率的でしょう。

これまで文章は、基本的には「人間が人間に何かを伝えるためのもの」でした。

しかし、書く側にも読む側にもAIが入るようになると、文章は必ずしも、人間が最初から最後まで読むことを前提としなくなるのかもしれません。

文章というものの役割自体が、少しずつ変わっていくかも…?

「これはAIが作りました」という見えない印

そんな中、「これはAIが作ったものです」と分かるようにする技術も進み始めています。

最近話題になったのが、AnthropicのClaudeに導入される文章のウォーターマークです。 欧州では2026年8月から透明性に関する規定が適用され、AIが生成・加工したコンテンツを機械で検出できるようにすることが求められています。Anthropicもこれに対応し、新しいClaudeモデルが生成する文章に機械で読み取れるウォーターマークを入れることを明らかにしました。

といっても、文章の最後に「この文章はClaudeが作りました」と表示されるわけではありません。

Claudeは文章を作るとき、次に来る単語を複数の候補から選んでいます。例えば、「今日の天気は曇りで……」の後に「寒かった」と続けても「ひんやりしていた」と続けても、文としては成立します。

ウォーターマークでは、こうした意味に大きく影響しない小さな選択に一定の規則を持たせ、その積み重ねとして文章全体に統計的なパターンを残します。人間が普通に読んでも違いは分かりませんが、専用の仕組みを使えば、Claudeが文章作成に関与した可能性を判定できます。

ただし、これは「Claudeが全部書いた」と証明するものではありません。Anthropic自身も、ウォーターマークから分かるのはClaudeがどこかで関わった可能性であり、「Claudeが書いた」のか「人間の文章をClaudeが編集した」のかまでは区別できないと説明しています。

ここで、また別の疑問が湧いてきます。

そもそも私たちは、なぜ「AIが書いたのか」を知りたいのでしょうか。

なぜ「人間が書いたもの」に価値を感じるのか

情報の信頼性を確認したいからでしょうか。
誰が責任を持っているのか知りたいからでしょうか。

もちろん、それもあると思います。

ただ、私自身の感覚はもっと単純です。
AIが生成した文章より、人間が自分で考えて書いた文章の方に、どこか価値を感じているのです。

まったく同じくらい上手な文章が二つあったとして、一方はAIが数秒で生成したもの、もう一方は誰かが何時間も考え、書いては消しながら作ったものだと分かったら、私は後者を読んでみたいと思います。きっとそう思う人は少なくないでしょう。

これは文章に限りませんよね。
工場で均一に作られた器と、職人が一つひとつ作った器。AIが数秒で生成したイラストと、誰かが何時間もかけて描いたイラスト。

私たちは、その背景にある時間や試行錯誤、作り手の意図まで含めて価値を感じることがあります。

文章にも、単なる情報伝達のツールではない側面があります。
「この人は何を考えて、この言葉を選んだのだろう」
と、書き手の思考に触れることも、文章を読む楽しさの一つなのではないでしょうか。

だからこそ、「AIが書いたのか、人間が書いたのか」が気になるのだと思います。

……と言いながら、この文章もAIを使っています

ここまで書いておいて何ですが、このブログもAIを使っています (笑)

最初に私の中にあったのは、
「AIに長い文章を書かせて、それを読む人もAIに要約させるのって、何か変じゃない?」
という、かなり雑な違和感でした。
それをAIにぶつけ、骨子を出してもらいました。

そこから、
「そこは面白くない」
「この問いは面白い」
「ウォーターマークの話を入れたらどうなる?」
「いや、そういう結論ではない」
と何度か壁打ちしています。

ですから、この文章に将来ウォーターマークが付いたら、間違いなく「生成AI使用:あり」になるでしょう。
でも、単に「AI使用:あり」だけでは、筆者として少し寂しい感じがします。

AIに「このテーマで3,000字書いて」と丸投げするのと、AIが返した答えに違和感を持ち、問い直し、何度も考えを行き来しながら文章を作るのとでは、同じ「AI使用」でもだいぶ違います。

人間がゼロから書いた文章。
人間が書いた文章をAIに校正してもらったもの。
AIと何度も壁打ちして作ったもの。
ほとんどAIに書いてもらったもの。

これからは、こうしたものがすべて混在していくのでしょう。

このブログにも、いつか「AI使用:あり」というウォーターマークが付く日が来たら、
その横に小さく、

「なお、筆者は結構考えました」

と表示してもらえるとうれしいです。


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